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2014年の「冠難辛句」募集してます.冠題は2012年に引き続き「あらためて」
6月12日投稿いただきました

「冠難辛句」が本になりました
 病いや障害を生きる。深刻になりかねない話も、茶(さ)話(わ)談義のように語られるのが、冠難辛句。そうした冠句という形を借りて話された心の内を、「冠難辛句」という題そのままで、『臨床作業療法』の前身『精神認知とOT』の第23巻3号から5年半、33回連載する機会がありました。それをまとめて1冊にしました。
 長い入院生活や療養生活の支援のなかで語られた、病いを生きる人たちの言葉は、ほろ苦く、しかし、弱さの力のような、柔らかなしたたかさがあります。ときには、治療・援助者として寄り添う者の「心の臓(しんのぞう)」に、グサリとくるような、鋭くも小気味よい言刃(ことば)もあります。直接自分の気持ちを伝えるには重すぎることや上手く伝えきれないことが、冠難辛句の力を借りて、一片の言の葉(刃)でサラリ、キラリと…。
 
                                                                    青海社 
 しばらくホームページでの冠難辛句活動が止まっていましたが,投稿をいただき再会です.
冠題は「あらあめて」です.投稿お待ちしています.


  冠難辛句の技法と機能を論文にまとめました。 クリック
あなたも 一句いかがですか? 冠題は 「あらためて」 です。作品は
kan.yamyam@s9.dion.ne.jp に送ってください。みなさんの句はこのページの末尾に掲載しています。 
 
 自由短詩技法「冠難辛句」
 精神療法を補完・代替する治療技法としてさまざまな芸術活動がもちいられますが、その一つである詩歌は古くからその治療効果が認識されていて、詩歌療法として知られています。冠難辛句は、詩歌の日常会話を超えたコミュニケーション機能、意識化が困難な情動の表出機能などを活かす方法として、冠句という自由短詩を元に、「元気を出して、艱難辛苦乗り越えて、病気も生きよう」と始めたものです。冠句よりさらに自由に、とらわれることなく、心の煙突掃除ができるようにと、字余り字足らずをおおらかに受け入れた自由短詩です。詩歌療法など創作・表現活動をもちいる治療技法の一つとしてももちいています。
 自由短詩は、言語的防衛機能の影響を減少させる自由連想法にも似た効果をもたらし、それがかえって含蓄のある真情の吐露となっています。その葛藤の表出と適度な隠蔽という防衛機序をもつ表現特性がカタルシスをともない、日常の会話を超えた深く味わい深い交流の時間を生みます。そしてその交流が、葛藤の受容や洞察、解決をもたらし、ときに自己変容に至るものと考えられます。
 

 
 右の文字をクリックしてみよう   自由短詩による情動の発散-冠難辛句;サラリと心の煙突掃除

     自由短詩技法について、2010年第44回日本作業療法学会の口述発表で用いたスライド

 冠難辛句の技法と機能を論文にまとめました。 クリック

 深刻になりかねない話も、茶話談義のように流れるのが、冠難辛句。そうした冠句という形を借りて話された心の内を、「冠難辛句」という題で、「精神認知とOT」の第2巻3号から「臨床作業療法」を経て、五年半、2010年n最終号で連載33回。連載終了しました。
 この技法は、2011年度に何らかの形(論文や書籍)でまとめて紹介する予定です。
 では、締めの一句。


                             
冠難辛句 溜まった心のすす払い
 
   生老病死のくるしみは 人をきらはぬ事なれば
    貴賤高下の隔てなく 貧富ともにのがれなし

  鎌倉時代の僧侶、一遍上人の「六道輪廻(ろくどうりんね)の間には ともなう人もなかりけり」に始まる、「百利口語(ひやくりくご)」の中の一節である。生きとし生ける者、ひとはだれも、老いからも、病いからも逃れきることはできません。
  精神の障害、不治の病いともいえる難儀な病気。なんで自分がこんな病気にと、なんとか治りたいと思う一心で、悩み苦しみ、生きている人たち。治りたい、治したいという思いを越えて、病いを生きている人たち。そんな人たちと出会い、私も生きている、生きてきた。
 というわけで33続いた冠難辛句、最後の冠題は、「生きてきた」です。

 精神病といわれたばかりに、精神障害といわれたばかりに、友を失い、社会との関わりを失い、自分が安らぐ居場所がない。病いの苦しみもありますが、病気になったつらさ、惨めさを、本当に思い知らされるのは、病気がやっと治まり、普通に生活したい、働きたいと、住む所や仕事を探す時だといいます。病いの壁を抜け出た、その時に立ちはだかるのは、世間という人の心の壁。そうした精神の病いを生きている人たちの思いが、冠句という拠り所を得て形になりました。

 病気も生きるのも大変だが、これまであったいいことは何かという話題になったとき、 「ほんまええことなかったけど、二つほどあったな」
それは何と聞かれて「内緒や。話してしもうたら値打ちが下がる」とトク爺。

(臨床作業療法 7,  -   ,2010)掲載
 
  頼りたい、頼るしかない。そうした力がある、あるいはそうした位置づけにある者は、時に大きな期待を抱かれることがあります。精神科医療においては、もっともその対象となりやすいのがお医者さんです。治りたい一心が、自分の主治医を万能者であってほしいと願わせるのでしょうか。

 強い期待や万能視は、背景に抑圧された不安や絶望があり、その反動形成だと説明されることがあります。しかし、治療者と患者という関係においては、よほどの信頼関係が成り立たないかぎり、信じたい、信じようという気持ちの裏には、常に不安と絶望が渦巻いているものです。

  「精神科のセンセって、なんや私でもできそうやな。難しいなゆうて薬出しとけばええんやから」、と嬉しそうに言うヨリ子さん。彼女は患者歴一五年、もう今の主治医とは一〇年来の付き合い。こうした本音が言えるのも、信頼関係が生まれたからなのでしょう。

 「ええ仕事やなぁ、聞いた振りでもできるんやから」
 これは、本当に辛口でした。新しく来た研修医の診察を受けたベテラン患者トミ爺の極めつけ。こうした病いを生きる人たちに、新米の医師も私たちも育てられるのです。

(臨床作業療法 7,  -   ,2010)掲載
   
 「この病気になってね、初めて、他人(ひと)の本音というものに気がつきました」と語られたのは、気分障害(従来のうつ病)になり、入院してきた五〇歳代なかばの、まだ働き盛りの男性でした。

 「ほんまや。一度精神の病気になると、ようなっても、周りの見る目が、もうそういう目になってしまうんやね」。精神的な病気になった人という見方をされるようになると、周りがそのような目で見るようになり、この病いが張りついてしまったようで、逃れることができないような思いにとらわれてしまうといいます。
 はぎとっても、はぎとってもこの病い、病気になったことそのものが張りついて、ぬぐいきれないのですね。

  「この病気になってね、怠け病や気の持ちようやとさんざん言われましたが、やっぱり病気や、ちゃんと治療すればいいんやって分かるまで五年くらいかかりましたかなあ」
 そうなのですね。病気と向き合うには、時間と勇気が必要なのですね。あなたはどのような病気と向き合われていますか。病気の新人?ベテラン?

(臨床作業療法 6,  -   ,2009)掲載
 
 「あんたが財布を盗ったんやろと、初めて言われたときには、腹が立つやら情けないやらで、思わず声を荒げてしまいました。下の世話までしているのに盗人扱い、私の方が呆けたい思いでした」と言われたのは、京都の長男さんに嫁いでこられた方でした。

 「それでも、二年、三年経つうちに、いずれは自分もたどる道やろなぁて、そう思うように‥‥」
 「そう思えるようになるまでは、自分がこんなになったら子どもらは世話してくれるやろか、子どもらにこんな思いさせとぉないな。明日はわが身やって、何度も、何度も自分に言い聞かせてきました」
 気がついたら五年、自宅介護で、最期を看取ったとのことでした。 

 「ほんとにね、他人事やないけど、してみたもん(者)でないとわからへん。大変やったけどね、あわせてみればそれも生き方かなぁ、ひとってみんなそんなもんかなぁってね」
認知症になられた方の介護をされたご家族、看取った後のみなさんがそんな風に言われます。
 何もかもが終わった、向き合うしかしようがないことに向き合った人たち、とてもいい顔をされています。そして、どこか寂しそうな…

(臨床作業療法 4,342-343,2007)掲載
 
 「恋煩い」は最新医学大辞典にも載っていませんが、「恋患い」ともいい、「恋するあまりの、悩みや気のふさぎ」(大辞泉)「恋愛の情にとりつかれて心身が病気にかかったようになった状態」(広辞苑第五版)「ある人を恋い慕う気持ちがつのったあまりに病気のようになること」(大辞林第二版)だと、国語辞書にはあります。

 恋病い、恋病みともあります。医学的には「恋煩い」という疾患はないようですが、ひとの世では、恋によって生じる悩みや気のふさぎは病いの一つ。
 関与観察によれば、身体や脳に何ら器質的異常はないのに、悩みや気のふさぎにとどまらず、身体機能の低下や異常を引き起こすのが、「恋煩い」といわれる病いの症状。
 実らない恋の悩みにより、自律神経の働きが乱れ、低下し、気が滅入り、意欲はなくなり、何事に対してもやる気が失せ、疲れやすくなるようです。脳や身体のエネルギー代謝が低下している状態ともいえます。

 しかし「恋煩い」の仕組みは分かっても、「お医者様でも 草津の湯でも 恋の病いは治りゃせぬよ」と昔から歌にまでうたわれた不治の病いです。胸の締めつけ締め付けられるような痛みは、寝ても覚めても治まるものではありません。 

(精神認知とOT 2,438-439,2005)掲載
 
  冠難辛句はじまりの冠題は「こころの病い」でした。精神病、精神障害という言葉が誤解を招くからと使われるようになった言葉です。

 「私たちの病気って、ほんとうに心の病気?心が病気になるの?」、そう問われて、あなたならどう返事しますか。軽い気持ちで「こころの病い」と口にして、私たちって心が病んでいるのと問い返されて、返す言葉を失ってしまいます。心の悩みや痛みは大きいが、ほんとうに心を病んでいる人たちは他にいるような気がしませんか。

 誰が使い始めたのかわかりませんが、精神病という代わりに「こころの病い」という言葉が使われるようになりました。言葉を替えたほうがいいものもあるでしょうが、「こころの病い」という言葉は、精神病という言葉をお化粧して見栄えよくみせただけじゃないの、本質の問題は何も変わっていないと、精神の病いに苦しんでいる友人が言いました。

 「こころの病い」ときれいに呼び替えてみても、気は重い。精神分裂病の呼称変更の動きが始まり、統合失調症になり、痴呆は認知症になりました。何がどう変わり、変わらなかったのか言い換えれば終わりの風潮のほうが怖い。
 早く病気を治して元気になって下さいねと言われも、先の見通しがつく病気であれば、「はいありがとう」と言えますが、治すということにとらわれると先が見えにくくなる病気もあります。


(精神認知とOT 2,248-249,2005)掲載
みなさんの句の掲載欄
2014年冠題「あらためて」 

あらためて
 アラ溜めすぎてはや幾年
あらためて
 アラも溜めればあら不思議
あらためて
 子も老もつなぐ作業かな
あらためて
 世界に触れたい作業かな


あらためて
 今ある自分を受け入れたい
あらためて
 いまある全てに 感謝する
あらためて
 生きやすい道切り拓く
あらためて
 自分らしさを見つけたい 
  
 

2年前「冠難辛句を媒介にといろいろと」と思うばかりで何も改まらなかったと思っていたが、振り返ってみると今に至る糧があったと、新潟県長岡市の松岡さんから4句いただきました。 震災ボランティアに携わったこと、WFOT大会2014に向けての思いなどです.






事故で車いすの生活を余儀なくされた小田島理恵さんの句です.
小田島さんは以前「もういいかい」の冠題で
もういいかい もういいよ。私の力でいいのなら」
を投稿くださいました.
小田切さんは車いすの生活になられ
てから,バスケットを始められ,車椅子バスケットで2020年のパラリンピックを目指し、改めてご自分のリカバリーの道を歩んでおられます.(いただいた句,冠難辛句用に微修正いたしました)
 
筆者より一句
 あらためて 私の人生リカバリー
2012年初冠題 
あらためて
 今年こそはと何度目か
あらためて
 できないことよりできることから

あらためて
 自分に素直に正直に

あらためて
 蒼く澄む空の彼方まで
あらためて
 今年は立つ年と決めて
あらためて
 今年こそはと幾度でも
あらためて
 伝えたい言葉があなたまで

あらためて
 ためてたあれらをあらためたい
あらためて
 みようといえるありがたさ
あらためて
 児と老つなげる作業とは

あらためて
 振り向いてみる人生を
あらためて
 ありがたいなあ親の恩

あらためて
 かみさんの顔じっとみる

あらためて
 ぼけないように勉強だ

あらためて
 幼子の笑み胸熱く


毎年今年こそはと思いながら繰り返している ZIZI
無理をしないでできることを楽しんで



 
「教員になって8ヶ月、いつも立ち戻る言葉です」と長崎学院の白岩さんの句


「今年で学生生活最後の年になるので、精一杯頑張り、楽しみたい」と広島大学
作業療法学専攻の学生原 聡さんより4句







新潟の作業療法士松岡大輔さんより3句
1句目は一番初めに心に浮かんだもの、2句目は「日常を送ることができる環境だからこそ改めてみようと思える、やり直すことがどんなに困難ことでも、取り組みが大変だとしても、できる環境・状況にあることが有難い」と昨年の震災に思いを寄せて、そして3句目は仮設住宅でのボランティアの体験からの思いを詠まれたものとのことです。


防府幸楽苑で冠難辛句をプログラムに取り入れているという作業療法士の野村幸司さんから5句投稿です.通所リハビリテーションに通っておられるみなさんが詠まれた句だそうです。


では僕からみなさんに一句

あらためて
 冠難辛句で今年も元

 
あきあかね
 ゆらりゆらりと飛んでいる
あきあかね
 あなたみたいに生きたいわ
療養中の「もろ」さんの句
春がくる
 あきらめてた春が私に 
春がくる 
 春はくるきっとくる

春がくる 
 苦手な季節と君が言う
春がくる
 雨音がする心鎮まる
春がくる
 梅の開花を待ち望む

春がくる 
 岩手県より友の声


春がくる
 私も一句いいですか?
春がくる
 わが子の笑顔も満開だ
いろいろあって、何もかもあきらめたように鬱々とした月日を過ごしていました。そんな私にいいことがありましたと。とてもいい顔でした。

週に一回、精神科病院に園芸療法ボランティアに行っておられる方が、「私の心の応援メッセ−ジ」と詠まれたものです。

作業療法士の風鈴さんより4句







金剛出版の中村奈々さんの句
 
もういいかい
 いいよと言って日が暮れた

もういいかい
 待たせすぎるとまだだめかい!

もういいかい
 あかんあかん も少し居てよ
            おとうちゃん

もういいかい
 もういいよ。私の力でいいのなら
子どもの頃、かくれんぼをしていて、「もういいよ」って言って隠れていたら、見つけてもらえないまま日が暮れてしまったことがあります。 

2つめの句は、「本気で隠れ場所を探してよく急かされました…」と、『臨床作業療法』の担当者松岡 薫さんの句です。

3つめの句は上埜敦子さんの句です。軽い脳梗塞で認知症の発症が確定したお舅さんとの生活の中。「ぼけてしもうた」と戸惑われるお父さんへの思いを詠まれたものです。



この句は、作業療法を勉強中の小田島理恵さんの句です。ご病気のご家族やご主人のお世話をなさっている、ご自身も病いを生きながらの小田島さんのお母様。その母への思いを詠まれたものです。
       「冠難辛句」は、臨床作業療法の連載を終わり、書籍として編集中です。
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