ZIZI-YAMA 
  これは、僕が作業療法士として精神系総合病院(精神科病床が全病床数のある比率を超えた総合病院をいいます)に勤務して経験したことを簡単にまとめたものです。作業療法士の資格取得のために養成校に入りなおし、資格を取得した1982年に入職しました。一般病床が約400床、精神科病床が約1100床という大きな病院で、1960年代半ばに民間病院として日本で初めてデイサービス(デイケアの前身にあたるもの)を無料で始めた病院でした。非常勤医師が来る産婦人科以外の全科がそろい、精神科病棟が13病棟、職員が700人あまりという大きな病院でした。そこに、一回り年齢が離れた同級の女性作業療法士と2名で入職し、作業療法を始めました。
 作業療法士になるまでのいきさつなどは「土の宿から」で少しわかります。
   
       
 患者さんとの協力で試みたこと
 養成校で学んだことで役だったのは、ひとの心身の機能と構造、そして病気と障害を分けて考える、まだ世に浸透していなかった障害分類の概念。 作業の意味も、ひとが作業をすることの意味も、ことばの上だけで、実際のどうするのか、引き出しはあるものの、中は空っぽという思いがした。
 それから、その引き出しを頼りに、必要と思われることを、患者さんたちに協力してもらいながら、次々と試した。作業療法室にこれない人には、ベッドサイドに、保護観察室に出向いた。退院した人には、外来作業療法や訪問を試みた。すべて病いを生きる人の支援として必要だったから。
 
 病院という環境がなければ命を守ることができない人でないかぎり、病いがあっても管理しながら生活できればいい、できるだけ普通に人としての暮らしをすればいいと思って、さまざまな生活の支援を試みた。バリヤーは病気ではなく、世間とその無理解から来る誤解が生んだ偏見だった。
 そして薬物などの身体療法以外の、あらゆる治療法を本当に意味があるかどうか、患者さんたちと一緒になって試みた。その中から、 いくつもの治療・援助技法が生まれた。
    
 精神病院で確信したこと
 精神科病院に勤務して、はじめて気がついたことがある。それは、ほんとうにこの病いは、10年も20年も入院しなければならない病気なのかということだった。病院の外から見ていたことでは分からなかったことだ。
 病気になった苦しみの上に、この病いを理解してもらえない苦しみが重なる。人とのかかわりのありようによって、機能の障害が大きく影響を受ける。正しい理解と配慮があれば、病状の有無に関係なく、入院しなくても生活ができる病気だということを知った。
 それなら、ひとが補助具になればいい、認知のサポート(こころの車いす)をすればいい。 そして、心身の病いはいずれも自己と身体の関係を回復することから始まるということを確信した。
  そして1989年地域生活支援をフィールドとするため,病院を出る。 
  精神科病院の中に入って初めて見えたことがあり、そしてそこを離れなければできないことがあると思い始めた時期に、地域をフィールドにするということを条件に、大学に移ることになった。
 そこでは、医学という世間とは異なる無理解の壁があった。自分と患者さんのかかわりを通して認めてもらうしかない。無認可の作業療法をはじめて、気がつけば14年、その間に早期作業療法システムの基礎ができ、急性期から地域生活支援までの体系化の糸口が見えていた。
 大学医学部付属病院の体験から
               地域生活支援の体験から
 早期退院、退院後の生活の安定のために、まず安心して眠れる生活の場と活動の場の確保,そして精神疾患、障害に対する誤解を払拭することから始まった。
 共に生きる、それは確実にある機能を違いを認め、病いに対する配慮はしても、遠慮はしない。互いの適切な節度の距離を保つことで共倒れしない、「土の会」で確信したことを、再確認、再認識する日々が続いた。
ZIZI-YAMA