「身体と作業」に    「作業をもちいる療法の基礎」に 
 

 

 

 

 
西田哲学の身体論

 西田幾多郎(1870-1945)は、「身体といふものなくして、我といふものはない」、「身体があるから見ることができる」のだといい、ひとは常に身体をもつという制約の下に存在するもので、ひとが何かを考え、実行するのも身体の制約の下において可能だとしました。
 「私の手を使う」「身体が思うように動かない」などというように、ひとにとって身体は道具としての特性をもって存在し、物を道具として使用するときには、その物を身体の機能の延長としてとらえたのです。すなわち、道具として存在する自分の身体、それを基盤(身体図式)とし、物(道具)を身体の機能の延長ととらえたときの身体のイメージが身体像に相当します 

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身体図式と身体像
身体図式body schemaは、メルロ・ポンティが「習慣的身体」といったように、習慣としての身体の表象と考えてよいものです。身体図式は、私たちが生活においてさまざまな動作をする、生活に必要な道具を使用する、その日々繰り返される身体の感覚的経験や運動的体験の蓄積により、個人の身体の各部位の大きさや運動機能、部位間の関係といったものが組み替え更新され、幼児期から青年期を経て、老年期へと、発達にともなう身体の変化にそって形成されます。
 したがって年を隔てて比較すれば、その時々の身体図式は異なりますが、その連続的な変化のなかでは恒常性、安定性が保たれており、私たちが身体を使用するとき、身体の尺度として身体の空間的なイメージを成立させる役割を担っています。

 身体像body imageは、その恒常性を保っている身体図式を基盤として構成される身体の実用的な設計図にあたります。身体を意識してはたらかすことが必要な状態において、身体像)が身体図式を基盤に立ち上がります。また道具を使用する場合には、それまで類似の道具を使用した経験から、とりあえずの初期身体像が立ち上がり、実際に手にした道具を使い始めると、使っている道具を身体の延長として取り込み、身体像はダイナミックに、手にしている道具に対応して修正されます。 

 



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