コミュニケーションとしての身体・作業に

 
  
   私たち一人ひとりは、ただ一つの身体をもって生まれる.自分の思いを他者に伝えたり、その思いを実現できるのも、だれのものでもない、そのただ一つの身体を通して成りたっている.自分という身体を通してしか成りたたない。したがって、私が存在するということ、それは、私という身体を生きているということにほかならない。
 しかし、心身の機能や構造にさしたる支障が生じていない日々の生活においては、自分の存在すべてを身体に依存していながら、その身体を意識することなく暮らしている。そして、病いや不慮の事故などにより、日常のさまざまな関係性が失われるとき、私たちは自分の身体との関係を否応なく意識することになる。 
  身 体 観
 病いや不慮の事故により失われる自分と身体との関係性において、ひとは、身体をどのようにとらえてきたのでしょうか。脳死をめぐって交わされたさまざまな論議の背景にも、洋の東西における身体観の大きな違いがあった。それは、脳死判定の論議を越えて、西洋医学的身体観と、心身一如のような東洋的身体観の違いといえるものであった。西洋医学的な身体観には、心身二元論を基盤とした身体のとらえ方が背景にある。
 それに対して東洋的身体観には、「チベットの死者の書」にみられるように、遺体は単なる物質ではなく、霊があの世に落ちつくまで、一定の手順と時間を経る必要があり、遺体は死者の生命と深く関わっているという身体のとらえ方がある。
 その身体観の違いの背景を簡単にまとめてみよう。


                        心身二元論(西洋医学的身体観)    

         


1) 古代ギリシャの哲学的霊魂観
 心身二元論は,プラトンPlaton(古代ギリシャ,BC428 or 427-BC348 or 347)の対話編にみられる理性的霊魂の不滅や、その弟子アリストテレス Aristoteles(古代ギリシャ,BC384-BC322)の霊魂論(山本,1968)など、古代ギリシャ哲学の霊魂観にさかのぼる。
 古代ギリシャでは、魂や精神を重視し、身体を第二義的に扱、人が死ぬと魂は神々の下に帰る、霊魂は生命の元と考えていました。この哲学的霊魂観が、霊肉二元の宗教思想と結びついて西洋の思想的な中核が形成されてきた。

2) デカルト的心身二元論と近代科学
 デカルトDescartes(フランス,1596-1650)は「われ思う,故にわれあり(cogito, ergo sum)」と言い、ひとの本質は意識の主体、心にあるとしました。心や心がからむ科学的に扱えない問題を科学の対象から切り離し、ひとの精神を除くすべての現象を科学の対象とした。
 近代合理主義や近代科学は,この身二元論と出会い普及しました。ハーヴェイHarveyの血液循環論に始まった近代(西洋)医学も、身体を精神から分離し、機械論的な見方をすることでめざましい発展を遂げた。「命の贈り物」といわれる移植、再生、遺伝子治療などの先端医療も、そうした文脈のなかで誕生した。

3) デカルト的心身二元論への批判
 私が思うことができるのは、この身体があるから可能、心身の相互性を抜きには成りたたない。この二元論の矛盾に、ニーチェNietzsche(ドイツ,1844-1900)は「近代人は身体の重要性を忘れている」と言い、ベルクソンBergson(フランス,1859-1941)やスピノザSpinoza(オランダ,1932-7197)ら一元論者によるデカルト的心身二元論の批判がおきた。
 そして、メルロ・ポンティMerleau-Ponty(フランス,1908-1961)の「知覚の現象学」(Merleau-Ponty,1945)により,第二義的にみられていた身体は、「生きられる身体」として現象学の主題となった。
                                   
**詳細は、『治療・援助における二つのコミュニケーション』pp.18-24,三輪書店,2008



                                     心身相関   

          

 1)身体機械論の行き詰まり
 心身医学は、フロイトFreud(1856-1939)のヒステリーや神経症研究による心身相関を理論的背景として、1930年代にアメリカで体系化された。近代(西洋)医学は、「病める人(patient with illness)」から「疾患(disease)」を客体化することで、原因究明や治療法開発に多くの成果をあげた。しかし、疾病構造の変化により心身相関を考慮した総合的な医療の必要性が高まり、心身二元論を基盤とした近代西洋医学の身体機械論的見方の行きづまりで注目されるようになったのが、心身医学と関連の深い補完・代替療法である。

2)補完・代替医療
 補完・代替療法は、大学医学部で教育されている近代西洋医学以外の療法の総称で、道教と関係の深い中国伝統医学やヨーガ哲学を基盤としたインドのアーユルベーダなどの代替医学システム、瞑想療法やイメージ療法など心身への介入をはかるもの、食事療法やサプリメントなどの生物学的療法、カイロプラクティック、マッサージ、整体などの手技的療法、エネルギー療法といわれる気功などが含まれる。
 多くは、禅やヨーガの修行など東洋思想の伝統的な身体観を背景としたもので、ウィルバーWilber(1949- )らのトランスパーソナル心理学も、東洋の修行法や宗教と西欧の心理学とを包括することで、身体機械論的な人間観の行きづまりを乗り越えようという試みとみることができる。

3)身体観の変化
 精神と身体を分け、身体を第二義的なものとした古代ギリシャから近代合理主義にいたる身体観が問いなおされ、心身相関に対する新たな認識と近代科学が意図的に軽んじてきた身体のリアリティの復権といえる。

                                  **詳細は、『治療・援助における二つのコミュニケーション』pp.18-24,三輪書店,2008 



                                   東洋的身体観
    

         

 東洋思想においては、精神(心)と物質(身体)を明確に分ける二元論的な考え方はなく、わが国では、鎌倉時代の初期に臨済宗を伝えた禅密兼修の僧栄西(1141-1215)の「心(しん)身(しん)一(いち)如(によ)」が理想とされてきた。禅における修行は、厳しい拘束を自己の心身に課し身体で覚え込む、体得によって悟り(意識の開け)の境地に達するというものです。道元(1200-53)も、その著「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう))」で「身と心とをわくことなし」といい、修行のはじまりは身体のあり方が心のあり方を決めていくことにあるとした。

 このような禅の修行における身体で覚え込む体得の思想は、芸の道でも稽古に取り入れられるようになりました。室町時代初期の猿楽師世阿弥は、猿楽、現在の能を完成させ、多くの書を残したが、その能楽論「風姿花伝(ふうしかでん)」において、「心」の動きと「身体」の動きを一致させることが能の稽古や修行であると書き残している。心と身体の相互性を考慮するだけでなく、身体を整えることで精神を整える、そうした心身一如における心と身体のありようは、作業療法の効果の重要なエビデンスに通じるものがある。 

  
  身体と作業
 日常の生活においては、 身体を意識することはほとんどない。私そのものである身体を、私が意識することなく日々過ごすことができる。それは、身体図式(body schema)、身体像(body image)と称される、脳内にある私の身体の表象、空間像のはたらきによるものである。

                            身体図式・身体像 


             




               




西田哲学の身体論

 西田幾多郎(1870-1945)は、「身体といふものなくして、我といふものはない」、「身体があるから見ることができる」のだといい、ひとは常に身体をもつという制約の下に存在するもので、ひとが何かを考え、実行するのも身体の制約の下において可能だとした。
 「私の手を使う」「身体が思うように動かない」などというように、ひとにとって身体は道具としての特性をもって存在し、物を道具として使用するときには、その物を身体の機能の延長としてとらえたのです。すなわち、道具として存在する自分の身体、それを基盤(身体図式)とし、物(道具)を身体の機能の延長ととらえたときの身体のイメージが身体像に相当する。

     






身体図式と身体像
身体図式body schemaは、メルロ・ポンティが「習慣的身体」といったように、習慣としての身体の表象と考えてよい。身体図式は、私たちが生活においてさまざまな動作をする、生活に必要な道具を使用する、その日々繰り返される身体の感覚的経験や運動的体験の蓄積により、個人の身体の各部位の大きさや運動機能、部位間の関係といったものが組み替え更新され、幼児期から青年期を経て、老年期へと、発達にともなう身体の変化にそって形成される。
 したがって年を隔てて比較すれば、その時々の身体図式は異なりますが、その連続的な変化のなかでは恒常性、安定性が保たれており、私たちが身体を使用するとき、身体の尺度として身体の空間的なイメージを成立させる役割を担っている。

 身体像body imageは、その恒常性を保っている身体図式を基盤として構成される身体の実用的な設計図にあたる。身体を意識してはたらかすことが必要な状態において、身体像)が身体図式を基盤に立ち上がります。また道具を使用する場合には、それまで類似の道具を使用した経験から、とりあえずの初期身体像が立ち上がり、実際に手にした道具を使い始めると、使っている道具を身体の延長として取り込み、身体像はダイナミックに、手にしている道具に対応して修正される。 

 




  





 **詳細は、『治療・援助における二つのコミュニケーション三輪書店,2008
コミュニケーションとしての身体・作業に