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 このつぶやきに感想やお考えを返してくださる方はkan.yamyam@s9.dion.ne.jpにお送りくだされば時間があるときにゆっくりお返事します。手紙よりは早く、ブログやフェイスブックよりは確かな伝え伝わりが。 
 2017/1/6 あれから7か月再び「認知作業療法」にちて 

 「おもうこと」に一言書いて、いろいろなことが身に起きて、しばらくこの欄に筆を執ることがなかったが、認知作業療法研究会という会の学術集会で「生涯一作業療法士私の試行−作業療法は行住坐臥動的平衡」というテーマで話すことになり、あらためて「認知作業療法」について思ったことがあり、筆をとる。

 ひとは生きるために作業する。作業することで、学び、育ち、作業することで、不安を軽くし、生活を楽しむ。命を保ち、命をつなぐ、ひとはそのために生きる。目的と意味をもった作業(生活行為)、その作業の日々の営みがひとを生かし、その営みの積み重ねが、ひとそれぞれの人生を紡ぐ。そうしたひとの生活行為は、個々の人が自分の身体を操作し、その身体により対象を操作することで実行される。作業療法はひとが作業することを介して、病や事故などにより、対象操作に支障が生じた人の生活機能(心身の機能・身体構造、活動と参加)の障害を軽減・回復する治療・支援である。

 病いや障害の機能回復に視点を置く作業療法のかかわり、ひとにとって、病いとは何か、障害とは何か、作業とは、ひとが作業するとは、作業をもちいる治療や生活支援にはどのような機序があるのか、その背景には作業療法の原理と哲学的理念が無ければならない。
 そう思って作業をもちいた治療・支援をしてきたが、最近「なぜ?」と思うことがいくつかある。その一つがイタリアの神経科学者Carlo C Perfettiが提唱した認知理論に基づく「認知運動療法」に触発されて使われるようになったと思われる「認知作業療法」である。理学療法士の宮本氏により日本に紹介されたときに素朴に感じたことは、「認知機能と関係のない運動はありえないのに、どうして、あえて認知という言葉を頭につけたのだろう」ということだった。ひとは日常の生活においては脳の働きを意識することなく身体を動かすことができているので、あえて認知運動療法と言わなかっただけで、認知機能と運動の関連を自覚して運動療法をおこなう必要を意図しての提唱なのだろう。
 「認知運動療法」のことはさておいて、「認知作業療法」についてであるが、作業は単に種目として提供されただけでは、どのように認識され、何を目的に運動企画がなされ、自分の身体や作業の対象をどのように操作するのか、また作業の過程や結果をどう受けとめる(認識)のかは、それぞれ作業する者によって異なる。そのため、作業療法士は「作業とことば」を手段として脳機能を操作する必要がある。その歴然としたことに対する認識がないまま作業療法を行うことはあり得ない。そう思って「作業を活かすことば、ことばを活かす作業」を、臨床で実践してきたので、「認知作業療法」という言葉用語を目にしたとき、なぜ「認知作業療法」と言うのだろうと思った。そして「認知作業療法」という用語を使い始めた人たちは、もしかすると作業療法士の作業の使い方に忸怩たる思いがあって、運動療法に「認知運動療法」という言葉が生まれたように、あえて「認知作業療法」と言われたのではないだろうかと思った。い。しかし、漫然と作業を提供し作業療法だと思っている作業療法士や学びの途中にある学生や新人の作業療法士には「認知作業療法」は作業療法とはちがう新しいものだと勘違いしている者もいる。

 作業療法は、ひとが日々生きるための行っている営み、目的と意味を持った作業(生活行為)を手段として、心身の機能・身体構造の特性、活動と参加を評価する。そして、疾患の病理と病める者の心の内を理解した心理的サポート、生活様式の工夫、適応的な生活技能の習得、環境の調整など包括的総合的な支援をすることにより、病いの再燃・再発を防ぎ、その人なりの生活の再構築と生活支援、社会への参加の手助けをする。
 作業療法がめざすところも、他の治療や支援と異なるものではないが、ひとの日々の生活行為を手段とし、作業を共におこなう人との交わり(療法集団)や場を活かして、対象者自身の主体的な経験が適切な体験となる治療・支援をおこない、「病いを生きる、病いと生きる人」に寄りそい、その人が求める生活の立て直しを支援することにある。
 そして、求める効果は利用者の納得と満足によって示される。作業療法の原理と哲学的理念は、行住坐臥、広野日々の生活行為の中にある。「ひとと作業」の関係を今の社会文化環境の中でより適切に活かすには、動的平衡、人類誕生の時より変わることのない「ひとと作業の関係」を活かすために、作業療法の知識や技術は変わり続けなければならない。


 さて、当日はどのような展開になるのだろうか、楽しみである。
2016/6/5 6/4のなぜ「認知作業療法」?に会員からの思いがおくられてきました  

会員より 
認知作業療法という言葉に私も違和感を感じますし、あえてそういう表現を用いる必要があることそのものがとても悲しい事実だとも思います。私の解釈では「認知行動療法」を作業療法に応用したというニュアンスも強いかと思うのですが、なおさら作業療法の深さがなくなるようにも感じています。そして、以前私の知り合いの当事者(脳卒中による片麻痺)方が、この認知行動療法的な考えを応用した作業療法の本を読み「これは私たちに対する侮辱のようにも感じる。対等ではない、治療者患者関係が象徴されている。」といったようなことを言われていました。 理論やモデルは必要だと思いますが、ひとはひとりひとり異なるという個別性や多義性を大切にすることが作業療法の魅力だと個人的には感じていますし、認知行動療法のような対象者の背景をあまり重要視しない、簡易的な精神療法という位置づけの療法を、安易に応用することで、「対象者にとって障害がどう体験されているのかという個人的側面」を見逃すことにならないよう気を付けたいと思っています。 誰のために、何のためにを忘れないようにしたいです。 

ご意見への返事 ご意見ありがとうございます。認知行動療法という用語もそうですね。作業を用いる療法においては、対象者の認知機能と認知の仕方を配慮し適切な認識と適応的行動を採ることができるようにすることは原則ですが、特に精神障害領域の作業療法では対象者に「作業をしてもらう」ことに作業療法士が依存して原則を自覚した使い方をしていない現状を良く目にします。いずれにしても、ひとと作業の相互性にある作業の特性とそれを治療や支援にもちいる基本の原理や原則を私たちは考えなければならないと思っています。
2016/6/4 なぜ「認知作業療法」? 

 いろいろな思いを抱かれて生まれた言葉や「こと」なのだろうが、私自身としては、その言葉や「こと」が生まれた背景は理解できるのだが、最近「なぜ?」と思うことがいくつかある。その一つが「認知作業療法」である。イタリアの神経科学者Carlo C Perfettiが提唱した認知理論に基づく「認知運動療法」が紹介されてからしばらくして使われるようになったのでこうしたことに触発されてのことなのだろうか。「認知運動療法」は運動の認知スキーマを再構築することを目的とするもので、日本には理学療法士の宮本氏が始めて紹介され、2000年4月「日本認知運動療法研究会」が発足し、2010年4月「認知神経リハビリテーション学会」として活動している。この「認知運動療法」という言葉が日本に紹介されたときに素朴に感じたことは、「認知機能と関係のない運動はありえないのに、どうして、あえて認知という言葉を頭につけたのだろう」ということだった。それまでの運動療法は認知機能との関連を考えずになされていたのか、それはうがった考えで、ひとは日常の生活においては脳の認知機能の働きを意識することなく身体を動かすことができているので、あえて認知運動療法と言わなかっただけで、認知機能と運動の関連を自覚して運動療法を行うという意味での提唱なのだろう。

 「認知運動療法」のことはさておいて、「認知作業療法」についてであるが、作業は単に種目として提供されただけでは、どのように認識され、何を目的に運動企画がなされ、自分の身体や作業の対象をどのように操作するのか、また作業の過程や結果をどう受けとめる(認識)すのかは、それぞれ作業する者によって異なる。そのため、作業療法士は作業の提供にあわせて「ことば」のかけ方により、脳にどのような認知の仕方をするかを操作する。すなわち適切な脳の働き方、働く部位に「作業とことば」を手段として介入している。その歴然としたことに対する認識がないまま作業療法を行うことはあり得ないと思って「作業と言葉」の関係を大切にし、「作業を活かすことば、ことばを活かす作業」ということ口にし、臨床で実践してきた。そのため、「認知作業療法」という用語を目にしたとき、唖然とした。認知機能との関連を考えない作業療法をしている人がいるのだろうかと。きっと「認知作業療法」ということを使われ始めた人たちも、作業療法士の作業の使い方に忸怩たる思いがあって、運動療法に「認知運動療法」という言葉が生まれたように、あえて「認知作業療法」と言われたのだろう。そうであってほしい。しかし、漫然と作業を提供し作業療法だと思っている作業療法士や学びの途中にある学生や新人の作業療法士には「認知作業療法」は作業療法とはちがう多らしいものだと勘違いしている者もいるのではなかろうかと心配する。
2015/4/14 「ほどく」 

 ほどけぬようにと
 しっかり結んだ結び目ほど
 ほどくのに時間がかかる
 しかたなく結んだ結び目も
 ほどくのに難儀することがある...
 太い紐より
 細い糸のほうが
 ほどくのに難儀する

 適当に結んだ結び目は
 途中でほどけてしまう

 紐も糸も
 ていねいにほどけば
 ほどいたあとに繋がりが残る
 ほときにくいからと
 ほどくのが難儀だからと
 切ってしまえば繋がりも切れる

 紐は結ぶときより
 ほどくときのほうが難しい

 仕事も
 ひとの出会いも
 始めるときより
 終わるときのほうが難しい

 繋がりが残る
 ていねいなほどきかたをしたい
 そう思って
 仕舞いと括りの時を過ごしている

2015/4/11 「がんばれ」

 頑張れよ!と、だれかに言う
 頑張ろう!と、だれかに言う
 頑張れよ!と、だれかに言われる
 頑張ろう!と、だれかに言われる

 でも、なぜだか
 頑張るぞ!と、自分に言うのは難しい
 自分で自分に言うのは難しい
 どうしてたろう?

 きっと人は
 自分で「これでいい」って
 確からしさをもつことは難しいんだろう

2014/11/18 論説 作業療法にアゴラを

                      アゴラのような
 「アゴラ」は、ミケーネ文明崩壊後に古代ギリシアの都市国家(ポリス)の一部として生まれた。これは市民が集まり自由に討議する広場を意味するギリシア語である。現在は比喩的に、専門、非専門、職域を超えた自由な発言や交流に関するるものや、グループや会社、店、催しの名称など、いろいろなところで使われている。
 使われ方はともかくとして、第16回世界作業療法士連盟(WFOT)大会2014を終え一息ついて、ああそうか、あの時間、あの空間、あれは「作業療法のアゴラ」ではなかったのかと思う。6年前スロベニアで行われたWFOT代表者会議でWFOT大会の日本開催が決定し、その1ヶ月後から準備が始まった。そして2年後にチリで開催された第15WFOT大会やアジア・太平洋作業療法学会(APOTC)での広報活動をはじめ、さまざまな場で、これまで経験したこともなかった新たな連携、出会うことがなかった多くの人たちとの出会いがあった。それらがあの4日間に凝集されて「作業療法のアゴラ」の世界を垣間見させてくれたのではないだろうか。
 あのとき港横浜の一角に生まれた作業療法のアゴラ、そこに集った7,000人あまりの人たちは何を体験したのだろう。それぞれの体験は、個々のその後に何を残したのだろう。大会のテーマ“Sharing Traditions, Creating Futures伝統を分かち、未来を創る)”は、祭りのテーマとして終わらせるのではなく、具体的な成果として形になってこそ意味がある。

                 作業療法は科学性がないと言われたが
 近代医学は、自然科学における客観性、普遍性、再現性を重視することでめざましい発達を遂げ、診断ではX線による画像検査にはじまり、CTMRIなどの高度画像診断、治療では抗生物質、ワクチンや麻酔技術、向精神薬の開発、経口補水療法など、特に公衆衛生分野の改革という点で人々の健康や医療環境に画期的な変化をもたらした。このように近代医学は、客観性、普遍性、再現性といった自然科学的視点で発展した。しかし、薬物においてもその開発段階では普遍性、再現性が重要であるが、実際に治療を行う際には、効果と副作用を予見し、それを基に個々に合った薬の種類や投与方法を決めるように、客観性、普遍性、再現性という視点では補いきれない現象がある。哲学者中村雄二郎が「臨床の知」で指摘した、〈生活世界〉すなわち日常生活を成り立たせている具体的な世界、そして〈関係の相互性〉といった主観性が入り込み数学化できない感性的性質に関する質的な現象である。それらは社会科学や人文科学の対象とされてきたものであり、そのため、人の日々の暮らしや人生において、目的と意味のある作業、生活行為を手段とする作業療法も、「客観性に欠ける」「科学的でない」と言われてきた
 作業療法は、個々の生活行為を通して、心身の状態や活動・参加などの生活機能と、その人を取り巻く環境や個々の生活史などの背景因子を読み解くことに始まる。そしてその人が、これまでどのように作業を営み、その営みの積み重ねがどのようにその人の人生を紡いできたのか、その紡ぎがいつ、どのような状態で綻び始めたのか(発症、受傷など)、今どのような綻びがあるのか(生活機能障害)、その綻びはどうすれば繕えるのか、作業療法は病や障害を生きる人に寄り添い、たとえ生活機能に支障があろうとも、その人が生きるために必要な生活行為ができるように支援する。それは、人間の健康という全一的なものを扱い、生活の中に見られる多様な現象を対象に、命の質、生活の質、人生の質の違いの問題を語る新たな科学分野である。作業療法で出会う現象はすべてといってもよいほど、主観としては明らかにそのクオリア[h2] Qualiaの違いを捉えていながら、客観的にその違いを言葉で表現することが難しい。その現象の根拠(evidenceを問われる学際的な科学分野に作業療法はある。 

                     作業療法にアゴラを
 作業療法のかかわりや支援も効果とevidenceが問われるが、客観的な効果や根拠はもちろんのこと、それ以上に対象者個々の〈生活世界〉を対象に、〈関係の相互性〉における、個々の主観的満足や納得が重要な効果、evidenceとして求められる。  そうした、作業療法の理念や基盤となることや効果を示すには、自然科学に社会科学や人文科学も含むさまざまな視点から、学際的に意見を述べ合うアゴラのような場が作業療法に必要であり、そのような場こそ作業療法にはふさわしい。
 
社会という環境に適応するための人間の思考や感情、意志など相対的に変化する文脈依存的な「こころのはたらき」は、従来のいわゆる科学が苦手としてきたもので、人文社会学の領域で取り扱われてきた。脳の研究は、従来の科学が求める再現性が高く現象間で普遍性の高いものとして適用できる理論を追求し理系の領域で扱われてきたため、これまで神経・神経系の構造や機能に関する生物学的な研究が中心であった。
 しかし「こころのはたらき」や脳の機能に関する研究は、PETMRIなどにより、非侵襲的に作業をしているときや思考中の脳内活動を可視化することができるようになり、感覚・知覚・認知・反応といった自然科学の研究領域と、ひとの社会的行動など社会科学の研究領域との境界が線引きできないほど急速に接近し、研究の相互乗り入れが始まっている。そうした新しい脳科学の研究は、脳の社会的認知機能に関するもので、社会神経科学、社会脳科学などと称されている。
 すでに、作業療法と深い関連がある神経科学は、社会科学の諸分野とも関連を持ちはじめ、新たな学際分野として神経経済学、決定理論、社会神経科学などとして発展しつつある。社会神経科学は、脳と社会関係に焦点を当て、感情神経科学や認知神経科学とも密接に関連し、社会的プロセスや行動の基盤となる生物学的仕組みを解明し、その理論を発展させようとしている。
 作業療法は、科学的でないと揶揄された時代に比べれば、稚拙とはいえ、昨今はずいぶんと統計的な処理もされ[h3] 自然科学的根拠に基づいた論文も増えてきた。大学院進学が増えたことなどの影響が大きい。ただ平均的な質はそろってきたが、evidenceも統計処理が可能なものに偏っているのが実情で、その多くは「形は整ってきた」というレベルにとどまっている。これは研究指導体制が質・量ともに確立されていないことも原因のひとつにある。今年開催されたWFOT大会でも、レベルはさまざまであるが諸外国のものには作業の捉え方や使い方、作業療法の哲学や理念などに関する発表がかなりみられた。日本の発表には、そうした作業療法の基盤となる質的な研究の紹介や発表が少なく、学会や学術誌などでも、表現は悪いがややないがしろにされている感がある。客観性、普遍性、再現性ということへの偏りと言える。
 わが国の作業療法の成熟は、作業療法学会や学術誌が作業療法の基盤となる哲学、理念、新しいモデルや理論を学際的に語る場になるかどうかにかかっている。

2014/11/18 「おもろい」

 「おもろい」か
 「かなん」か
 すべての判断は
 このどっちかで決まる
 仕事も研究も

   決められないのは
 何か気づかぬ未練がましさ
 二兎を追っているだけ

 「おもろい」か
 「かなん」かで
 できへんのは というより
 したらあかんのは only love

2014/11/18 心配なこと

 水曜午後は
 救急急性期病棟精神科作業療法の臨床
 今の時期は評価実習と臨床実習が重なる
 自分の臨床の場で指導しながら
 同時期に他施設で臨床実習...
 他施設には実習訪問に行く

 臨床教育、臨床研究は
 自分がしていることできることを通して

 教えながら自分の臨床の場で
 評価実習を行う
 25年になる
 今年が最後の年
 来年度からは一作業療法士として
 臨床支援と地域活動

 だからというわけではないが
 教えていて気になることがある
 昔から見られたことだが
 特にこの数年増えてきた
 座学では伝えることか難しい
 ひととのかかわり

 作業療法は
 生活行為を介して
 ひとがひとにかかわる仕事
 その仕事に携わろうと学ぶ若人に
 ひととのかかわりに行き詰まる者が増えた

 ひととの距離感がわからないという
 会話ができないという
 何も困っていないのだけど
 なぜか患者さんと関係がつかないという

 臨床の場を借りてしか学べないことだが
 実習以前の問題で行き詰まる若人
 なぜだか増えている 

2014/8/27 ほんとうの疑問-分からないこと 

 学部生の卒論指導や院生の研究指導をしてきて、今更ながら気がついたことがある。分からない分からないと言って、一つの疑問を前にして考え込み足踏み状態になっているときには、分からないと言っているけどほんとうに何が分からないのか分かっていない状態にある。とにかく、形はどうであれ、今目の前にある疑問、分からないことを乗り越えてみるとよい。乗り越え方や乗り越えた結果が出たときに、初めてほんとうに分からないことが何かが見えてくる。
 そうしてこの最初の何が分からないのかが分かったときに、次々と新しい疑問、分からないことが起きてくる。しかし、それからの新たな疑問こそが、臨床家であれ教育研究者であれ、プロに向かう始まりなのだろう。単純なことであるが事実である。
2014/7/18 今思っていること 

 私にとっては6年越しになるWFOT大会2014が終わり、残務整理をしながら
2015年度から何度目かになる人生の再スタートに向けて、いろいろ模索しているところです。自分が経験して、伝えられるものをできるだけ伝えたいという思いと、できるだけ後進の道の妨げにならない、迷惑にならないように下がりたい、その二つの気持ちの中でいろいろ思い巡らせています。
 ホームページのトップにあげていますように、2015年からは自分の活動を
「ひとと作業・生活」研究会をを中心にしたいと思っています。
キーワードは
「作業の知」「作業の力
研究会は賛同者や共同作業者などを募って進める予定ですが、事業としては、
・拾円塾の発展的継続で、リハビリテーションや地域生活支援における相談と学習
・作業をもちいる臨床の相談支援
・作業療法に関連がある作業や集団・場の実践講座
・事例を通した臨床の知と技の向上
・リハビリテーション部門のマネージメントの相談支援
・作業療法士のボランティアバンク(つなぎの場の提供)
・少人数のスーパービジョンコース
・「作業の知」「作業の力」に関する言語化
などを考えています。興味をお持ちの方は、いろいろ提案やご意見をうかがえるとありがたいです。
枠の緩い梁山泊のような集まりがこのホームページを中心にネットワークできればいいなと夢見ています。

いろいろご意見ください kan.yamyam@s9.dion.ne.jp
2014/3/11 気分本位と目的本位(実行本位)、事実本位

 気分本位は、森田正馬が神経質の治療で用いた言葉だが、簡単に言うと、気分の善し悪しによって、自分の行為を判断したり行動するもので、それに対し目的本位(実行本位)は気分にとらわれないで目的を達成することを重視する生活の仕方をいう。事実本位は気分がどうであろうと、気分にとらわれずとにかく物事は事実を基に考えたり行動するというもの。
 ひとはどうしても、失敗を避けようとする気持ちが強くなると気分本位になる。しっかり考えて行動することは大切であるが、思考優位になるとどうしてもdoing & thinkingをしないで石橋をたたくばかりで渡らない(渡れない)で足踏みしてしまいがちになる。何もできないという思いにとらわれたときは、まず自分の身体を生かすこと、身辺処理や生活管理などの生活維持行為だけは何も考えることなくしてみることを勧めた森田の経験的治療法から生まれた言葉なのだろう。
 その言葉が深くしみいる。
 
2014/1/19 できないことをできないことのままにしない

 ストレングスモデルにそった働きかけ、それは「できないこと」を「できるようにする」ウィークネスモデルに基づいた治療的な訓練より、「できること」を活かす、伸ばすことで、生活全体の障害を軽減したり、活動性を高めたり、QOLの維持・向上を図ることである。
 しかしさらに重要なことがある。それは「できないことをできないことのままにしない」ということ。これも視点の置き方の問題で、難しいことではない。「できないこと」を「できるようにとする」という、治すというウィークネスモデルから見放された「できないこと」、それはややもすると、「できること」を活かす、伸ばすということからも忘れられているが、それに対する作業療法本来の視点を活かした方法が「できないこと」を「できないことのままにしない」。センスのあるセラピストなら、臨床の中であたりまえのこととしておこなっていることのように思う。
 
2014/1/8 時間

 
京の庭師、佐野籐右衛門氏は、祖父の代より日本各地の桜を保存する活動を継承し、「桜守」としても知られている。氏が何かの番組でインタビューを受けたときに語ったことばがある。
  「時間は過ぎてゆくが、時は刻んでゆく」
 思えば作業療法を生業にして33年、時間は知らない間に過ぎていた。しかし、その間に時が刻んだものは有形無形に残っている。過ぎた時を戻すことも変えることもできないが、時が刻んだものを継承することはできる。新たな刻みに活かすことはできる。
 
 2013/12/13 査読

 先日、受け取りがたい査読の返事が返ってきたというある大学の教員のつぶやきがSNSであった。誤解もあっては困るがと思いながら自分の経験や意見を述べたら、ずいぶん多くの人から反応があった。それほど、多くの人が投稿や査読に対して忸怩たる思いを抱いておられるのだろう。確かに投稿論文を査読するというのは、それなりの見識と経験が必要である。通常は投稿規定にそっていない、その雑誌の性質上そぐわない、論文としての構成や内容が整っていないなどの場合には返却される。しかし、近年、エビデンス、客観性ということを問われるがあまり、統計処理がしにくい質的な論文が敬遠される傾向がある。査読者は、これまで論文を投稿して掲載された人たちが依頼されてなるため、査読者としての質には大きな差がある。時に、粗探しをするような重箱の隅的なものや、統計の処理などで統計学者の間でも意見が分かれるような細かなことに、ご自分の中途半端な認識だけでこだわったり、査読者の意見に反論すると受理されなかったりといったことも起きていると聞く。作業療法のように比較的若い人が多い領域では、できるだけよい形で掲載されるような教育的観点からの査読が必要だろう。
 2013/10/25 プラセボ

 昨日、特別講義のなかでプラセボの話になった。薬物のプラセボからのやりとりからだが、医学モデルの概念が頭にあると、学生は客観性ということをしっかり問われる授業を受けているため、プラセボ効果はよくないと思ってしまうようだ。暗示や洗脳をイメージするらしい。しかし、臨床の医療はすべてプラセボ反応をいかによい形で生かすことができるかにある。対象者が治療・援助者を信頼する。そこに生まれる安心感や治療を主体的に受け入れ取り組もうとおもう気持ちになる。それが生体としての機能を高め、脳内のシナプス活動を活性化する。プラセボ反応とはそういうものだ。したがって薬剤の開発では、プラセボ反応を最大限に排除してその薬剤そのものの効果を確かめることが必要であるが、臨床では、いかによい形でプラセボ反応を生かすかが治療・援助者のプロとしてのセンスと言える。
 2013/8/29 ひととことばと作業と

 自分の考えや伝えたいことを整理し、こころの内を適切に表し、伝える「ことば」。ことばは曖昧な現象や心象、十分自覚されていない真相を明確にする。しかし,一方で,ことばによる表象課程では、知的フィルターのチェック(知的防衛)を受けるため、わかられたくないことは口にしない、言いかえるといった防衛の手段としてももちいられる。また、ひとがことばで関わる治療は、そのhumanとverbaな特性ゆえ、強い侵襲性をもっている。 さらに、ことばは、here and nowで語りながら、その内容はthenであるため、ときに現象を離れ、加工された心象のやりとりになる。そこに齟齬が生じことば一つが、治療の岐路になることもある。
 主に言語を介する治療に対し、作業を介した関与は、的確さ、客観性という点では言語には及ばないが、作業の具現化による視線の被曝に対するシェルター効果、没我性、現実検討、自我拡張機能など、そのnon-
humanとnon-verbalな侵襲性の少ない特性が、言語による治療を補完する。ことばと作業、その関与の違いは還元的明晰さと調和統合の違いとでもいえばよいだろうか。
 しかし、そうした特性がある作業も、おこなっただけでは、体験は次の体験にとってかわられ消えていく。おこなった作業が意味ある体験として活きるには、「作業を活かすことば」が必要になる。ことばがひとの体験を意味あるものに括り、確かなものにする。そして、ことばを活かすには、身体的(感覚的)・情緒的なレベルにおける共有体験や類似体験が基盤にあるとよい。作業を介した関与においては、ことばの特性と機能を活かすために、「ことばを活かす作業」を設定する。
 2013/7/2 リスク

 47回作業療法学会大阪大会は盛況の内に終わったが、自分の発表とシンポジストでの参加以外はすべてWFOT大会2014の打合せに明け暮れた大変タイトな学会であった。
 その発表の中で、急性期のパラレルな場の運営におけるリスクの対応をどのようにしているかというご質問をいただいた。急性期の作業療法を病棟とは別棟でおこなっているため、質問者は離院もリスクの一つにとらえていたのかもしれないが、時間が詰まっていたので確認せずに「これまで大きなリスクはなかったので、危険物の扱い以外に特に対応したことがない。一度いらだった患者さんがはさみでテーブルを傷つけたくらい。一番大きなリスクはスタッフの言動が原因」と答えた。
 離院は施設側にとってはリスクであろうが、患者にとっては理由があっての行為であり、治療上どのようにその理由をくみ取り対処するかが課題になる。離院をリスクとして対処するか、患者の心情をくみ取って治療的な視点から対処するかでは大きく異なる。私は後者なので、離院をしたい患者の気持ちに働きかける。
 2013/6/19 「てきぱき」と「ばたばた」

 片をつけなければならないことが溜まってくる、期限が迫ってくると、やはり落ち着かない。忙しいとき時間限りがあるとき、「てきぱき」と仕事ができるときは、忙しいが緩急自在で、忙しい割には気持ちにゆとりがある。しかし、同じ状況でも「ばたばた」が始まると、まったく結果は異なる。「てきぱき」のときにはミスもなくこなせていたことが、「ばたばた」になると忙しい割には効率が悪く、ミスが多くなる。たぶんどちらも交感神経は高まっているのだろうが、高まりの質が違う。きっと「てきぱき」の時は副交感神経が適切に働いているからだろう。作業における交感神経と副交感神経の関係に目を向けるとおもしろい。
 2013/5/26 せちがらい

 なぜだろう
 物や情報が溢れ、さしたる努力もなくほどほどのものが手に入り、本当に欲しいものは、努力しても手に入らない。努力や待つということと結果が結び付かない時代になった。
 それが影響いているのだろうか、簡単にあきらめたり、誰もが自己保身できゅうきゅうしている。
 「せちがらい」という言葉が頭にうかんだ。ちなみに「せちがらい」は、漢字で書くと「世知辛い」。世知は仏教の用語で「世俗の知恵」で「世渡りの知恵」を意味する。「せちがらい」は、世渡り上手ばかり増えて住みにくい世になったことをという。
 2013/5/8 専門用語の功罪

 
専門用語はその定義が共通認識されることで端的に記述表現ができ、ある決まった事象を伝えるには有用である。そのため、作業療法士の教育やトレーニングにおいても専門用語を適切に使うことができるということが課題になっている。適切に使うということでは問題はないが、専門用語で書かれたものは、身体的な問題などのばあいは、端的でわかりやすいことが多いが、精神的心理的なことについては、学術用語に置き換えると、対象者がどのような状態にあるのかが見えなくなってしまう。
 「被害的な幻聴がある」と書いてあっても、分かるのはそうした症状があるということだけで、それ以上のことは分からない。時折以前の記録を見直すことがあるが、自分が書いたものなら、数行目を通すと、大半はその時の情景が思いおこされる。しかし他人の記録になると、学術的な専門用語だけでまとめられていると、具体的な情景はほとんどわからない。やはり、精神や心理に関する記録は、あったこと、語られたことをそのまま書いてあるほうがいい。読んで情景が分かる記述がなされてないと記録の意味が薄れる。もし学術的な用語を付加するなら「○○といい、被害的な幻聴があると思われるが、本人は幻聴という認識はない」といったような、記述になるだろう。
 2013/2/14 不立文字(ふりゅうもんじ) 

 臨床で得たさまざまなことをどのように伝えたらいいだろう。分かり合えたらいいだろう。いろいろな言葉で説明しても、伝えきれないものがある。客観性を求められ形式知として明確に言語化する工夫はいろいろあり、そうした試みをしてみても、伝えきれないものがある。
 マイケル・ポランニーが『暗黙知の次元』で「われわれは、語りうることより多くのことを知ることができる」と言ったように、わたしたちが経験を通して気づいたことを、言葉で十分伝えることはできないし、言葉にできないものがある。
 言葉では本当のことは伝わらないという禅語の不立文字も、以心伝心の大切さを表すもので、暗黙知とは違う意味で言葉や文字の限界を表している。何もかもが情報化されることで安易に分かったつもりになるが、わからないことをわからないまま、ことばにならない思いを言葉にしないまま、心で伝える時間の過ごしをもつこも大切にしたい。不立文字。
 
 2013/1/20 「まあー」のちから 

 話し上手より聞き上手と言われるが、孫と過ごす時間ができて、あらためて思い出したことがある。それは、自分が子供の頃、悔しかったこと、うれしかったこと、いろんなことを「まあー」といって聞いてくれたジィちゃんやバアちゃんたちのことである。うれしかったことはともかく、悔しかったことや腹が立ったことなどは、親に話すと何やかやとその理由を問われ、だいたいはあれこれと注意までされるので、ジィちゃんやバアちゃんに話すことが多かったように思う。そのときの返事が「まあー」だった。「まあー」の後には何も言葉がなく、その発せられるタイミングや抑揚、調子など声の表情が、「よかったね」「がんばったんだね」「大変だったね」「かわいそうに」などいろいろな意味を含んでいた。余計なことを何一つ言わず話を最後まで聞いてくれ、「まあー」。何も言われないから、自分のありようをそのまま受け止めてもらえたから安心できた、ということを思い出した。
 河合や神田橋の「ほう」と同じ「まあー」のちから。
 
 2013/1/3 身体の感受性を保障するパラレルな場 

 作業療法の治療構造として、ひとの集まりの凝集性を高めない成熟した場(パラレルな場)を考えて30年あまり経つ。成熟した場とは何か、なぜパラレルな場は、精神疾患で亜急性期状態の人でも落ち着いて過ごすことができるのかと、見学に来た人からよく聞かれる。自分が病気であることを気にしなくていい、人と同じことをしなくていいからであるが、それは、身体の感受性を低めて防衛しなくてすむ場が保障されているからだと言い換えることができる。
 精神的に疲弊しているときは、身体の感受性を鈍くするもしくは感覚を遮断することで自らを守ろうとする自然な防衛機能が働く。それは、自分を守る機能ではあるが、周囲の状況を把握することもできなくなり、病的な自閉状態に陥る。パラレルな場は、そうして無理をすることなく、身体が感受する環境をそのまま受け入れ、自閉の殻を緩やかに解きほぐし解放された安心感をもたらす。
 
 2013にむけ 語り直す 

 どうにもならないことを生きる。年が変わるたびに人生を語り直すように生きている。思うようになることよりもならないことが多く、そのどうにもならないことを生き続けるのが生きるということなのだろう。自分の人生を語り直しながら生きてきた。新しい年にはどのように語り直すことができるのだろう。
 
 2012/12/18 歩く 

 よほど時間が無いとき以外は、朝、三条か四条から大学まで鴨川の河岸を歩く。電車を降りたときの駅中のクリスマス商戦に向けた人工的な彩りや匂い、音を離れて、河岸を歩き始めるときりっと引き締まった冷気が身を包む。桜もセンダンの木も柳も、木々は葉をすべて落とし、新芽の準備を終え新しい春を待っている。川面は、マガモ、オナガガモ、ヒドリガモ、ゴイサギ、ユリカモメ、カワウなど冬鳥が日々数を増している。忙しさの中で時間に追われる生活の中で、忙中閑あり。この朝のわずか20分あまりのただ五官を開いて歩く時間が、心も身体も整えてくれる。
 
 2012/12/12 任運自在(にんうんじざい) 

 任運自在という禅の言葉がある。実存的な現象を受容することを意味している。無駄なあがきをしないで、あるがままに任せて物事を行うということである。すべてのことは、自分が努力すればどうにかなるものと自分の努力ではどうしようもないもの、そして努力する必要もないものに分けられる。本当に必要なことだけして、あとは無駄な抗いをしない。それはあきらめることでもただ成行きに任せることでもない。
 
  2012/11/29 忙しい 

 仕事や時間に追われ「忙しい」ということばがいつの間にか口癖になっていた。本当に忙しくても「忙しい」ということばを口にするとき、そのことばの裏にはこんなにも自分がという自慢めいたニュアンスが潜んでいないだろうか。思わず口にする「忙しくてね」。Noと言えば言えないことはないことを引き受けてしまう自分があるからではないだろうか。忙しいと言い訳すれば、心が亡くなる。「忙中閑あり」の状態を保たなければ。
 
  2012/11/19 作業療法とことば 

 作業療法はことばになりにくいところにその本質がある。その本質に近づくためにことばにする努力が必要。客観的本質に基づいた解釈と分析から得られた優れた主観(直感)がSence of occupatonal therapy それを身につけるための姿勢をOccupational maind と言う。
 
  2012/11/ 7 行住坐臥 作業即養生 

 寝て起きてたって歩く、こうしたひとの生活行為、生活に必要な作業活動をすることがそのまま、心や身体の養生になる。日々の生活における作業を手を抜かず、自分の身体を使っておこなうことが、心や身体の働きを育て保つ。行住坐臥 作業即養生。作業療法は平凡で豊かな日々の作業行為より生まれた。
 
  2012/10/29 時間 

 ひとは、時間という概念を持つようになって、過ぎた時間を見つめながら、これから来る時間を思い、今を生きる。そして、時間という概念が、待つことのつらさを、待てない苦しみを気づかせた。そのつらさ、苦しみは、これから来る時間への希望の対価。そう思える歳になった頃には、残された時間が見えてくる。残された時間が見えてくるから、待つことのつらさ、待てない苦しみが、希望の対価と思えるのかもしれない。今を生きる。 
  2012/10/24 どー? 

 先月,LINEに「精神障害についてどーおもいますか!?」という問いかけがありました。突然のLINE。夜討ち朝駆けのマスコミより単刀直入。「あなたは何歳?なぜ何を知りたいの?」と返したら、大学に赴任して初めて担当した学生(女性)の娘さんで中学2年生ということが判明。新聞に精神障害のことが載っていて,家にあった本(拙著の精神障害と作業療法だろうか?)をお母さんと読んでも「いまいち よくわかりませんでした なので 聞いてみました」と返事がありました。何か犯罪があったときの精神障害に対するマスコミの扱いや基本的な精神障害のことを少し説明すると「精神障害は思春期になりやすいって母がいっていました… では そのまま障害にならずに死ぬ人もいるのですか?」。大学生にもなれば思ってはいても(思わないかもしれない)聞かなくなる(聞けなくなる?)素朴で新鮮な疑問に、「病気って何だと思いますか?障害って何だと思いますか?」と聞いてみた。返ってきた返事は「病気は病院に行く必要がある状態 障害は自分が障害と思ったという状態」でした。その後、何か考えては問いかけがあるので、ZIZIと中2のお嬢さんの交換LINEが不定期に続いています。
 誤解や偏見にまみれた私たち大人。子供の頃からもっていたわけではない。小学生や中学生のときに感じる素朴な疑問に応える(答える)ことの大切さをあらためて…
 2012/10/ 1 回想 

 昔のことを思い起こす回想は、日常的には忘れているからこそなされるもの。○○周年記念などが行われるのも、そうした記憶を新たにする儀式をしなければ、体験が風化し忘れ去られるからなのでしょう。ひとは忘れることができるからこそ、生きることができると言ったのは誰だったかな。
 病いを生きる人たちは忘れることができないから苦しい。大切なこと忘れてしまっているのに、忘れられないことに苦しむ。そうした苦しみを和らげるために回想を用います。二つの回想、一つは、忘れようと思っても忘れることができない思いをあらためて語る回想です。いつまでも忘れられないことを、話し、話すことで胸から離す。話すことで、つらい抱えている思いを離し、放す。もう一つは、自分が生きてきた日々を思い起こして語る回想。忘れていた自分の人生の日々を思い起こし話すことで、自分を受け入れる、自己の同定。
 
 2012/08/28 尾根と汀(みぎわ) 

 尾根と汀、いずれも二つの領域の境(境界)を表す言葉ですが、そのもちい方はずいぶんと異なります。尾根はどちらに降りるかで文化や生活が異なる場合があるが、もう一度越えれば反対側に行くことができる。努力と気持ちでどちらにでも行くことができる稜線を言います。しかし、汀(みぎわ)は向こうとこちらが大きく様相が違い、「いのちの汀」というように、越えてしまえば戻ることができない一線を表すときにもちいられることが多いと思います。作業療法という仕事は大半が尾根を歩くような仕事ですが、ときに越えるか超えないか、するかしないか、汀に突きあたることがあります。

 そうした汀において、しっかりと自分の判断をするには、ゆっくりと四方を見ながら歩くことができる尾根を歩いているときに瞬時の判断がなされているかどうかによります。そんなことがなぜだか頭に浮かびました。今わたしは、何かの汀に近づいているのかもしれません。
2012/07/24 折り合い 

 「折り合い」をつけるということをネガティブな意味で妥協すると思って嫌う人もいます。個人主義individualismの誤解から来るものなのでしょうか。自己の行為と矛盾した態度を安易に許さないということは、主体性や自己責任という意味では大切なことですが、相手が折れるまで自分の思いだけを主張される場面に出会うと大変疲れます。「折り合い」をつけるということは、単なる妥協(折れ合い)とはちがって、自分の意思もはっきり示しながら、相手の考えを十分知り、双方が納得できる形に収めるということではないでしょうか。最近、身近なことでも、国のことでも、国家間のことでも、適切な「折り合い」をつける力が減っている場面に出会うことが多くあり、いろいろと「折り合い」ということについて思うことがありました。

 「折り合い」の究極は、一者関係における自己との折り合いでしょう。思春期や青年期には、他者との「折り合い」は学びながら自分とは安易に折り合うのはよくありませんが、思秋期から高齢期になりいろいろなことを収めて行くには、自己との「折り合い」が大きな課題となります。

2012/07/6 どうしてこうも 

 同じ場を過ごしながらどうしてこうも違う認識をするのだろう(ときにはできるのだろうとも思います)。ここしばらくいくつかの会議で似たような体験が続いて疲労困憊しているので、あらためてそんなことを思ってしまった。なんということはない。同じ状況に身を置いても、ひとはそれぞれ、自分の思い(いや、思いたい)というこだわり(コンプレックス)のフィルターを通してしか状況を判断しないからだけなのでしょうけどね。そのため、比較的冷静に状況を見ている者同士では、大きな食いちがいなく状況の認識ができており、話も大きな食いちがいなく進みます。しかし、「どうせ」とか「きっとそうにちがいない」というフィルターを通してみる人は、情報そのものを歪めて取り込んでいるので、話し合いは進展しません。大変なのは、フィルターの異なる者同士がお互いの認識を押しつけ合う論争が始まったときです。テレビのそれぞれの政党を背負った議員たちの実りのない主張のぶっつけ合い番組と同じです。そうした論争が始まったときには、しばらくガス抜きだと思い、双方の認識違いを指摘せずにそれぞれの言いたいことを聞くしかありません。聞くにも、エネルギーも時間もいりますが、修正の指摘をして返ってくる反応に巻き込まれるよりは、ひとしきり思いのたけを述べてもらってから、淡々と事実確認をするのがエコ。ああ、でもうっかりと巻き込まれてしまい、疲労困憊して反省することが多い昨今です。
2012/06/25 さりげない会話の中に 

 昔の仕事仲間が本を書いたので書評をと送られてきました。読みながら臨床どっぷりだった日々のことを想い出しました。あの頃は、毎月数回中間宿舎の宿直があり、日中の勤務が終わったら、そのまま宿直、翌日もそのまま勤務に入ったものです。そのため、宿直があるときは40時間あまりを病院で過ごすことになります。宿直の夜は、何事もなければ、夏の夜は涼みがてらに夜更けまで、冬の夜は暖を採るためにストーブを囲み夜更けまで、とりとめもなく話をして過ごしたものです。病気のこと、故郷のこと、入院経験のこと‥。そこには、日中の診療プログラムの時間とは異なる、病いを生きてきた人の顔があります。フォーマルな形式の面接では聞かれない、さまざまな思いが語られました。きちんとしたフォーマルな面接も必要ですが、こうしたさりげない会話の中にこそ、その人の思いやニーズが聞かれます。昔は医師も看護師も、直接治療とは関係がないような、そうした会話を患者と交わす時間があったように思います。しかし今は、エビデンスとか、効果とか、そんな言葉に追われて、記録に追われて、そんな豊かなとりとめのない会話ができる時間がなくなっています。作業療法では、まだ作業の合間や準備、片付け、休憩のお茶の時間などに普通の会話が交わされることが多いのですが、こうした会話を上手く活かす者が少なくなったような気がします。効果判定、エビデンス、客観性、大事なことですが、そのために本質がないがしろにされては困ります。 
2012/06/18 学会を終えて 

 宮崎学会、新たな試みのはじまり。今回はWFOT大会2014のTeam Japanの合同会議があり、演題募集まで半年になり、最終の確認がなされました。大会ロゴマーク付きのTシャツを着て会場を歩く人たちも増え、国際大会への関心もやっと高まり始めた印象を受けました。2014年の大会は国内学会を兼ねた国際学会なので,これを機に視野を広げるとともに、私たちのサービスの対象となる方々が暮らされている地域,日本という国をもう一度見直したいものです。
学会の発表もふえましたが、生活機能障害の背景やその障害がある人の生活を支援するという基本的なことがあいまいというか少しおろそかになっている発表が多々見られたのが残念でした。一生懸命だが、エビデンス、根拠という言葉に振り回されている感をぬぐえない。大学も大学院も増えたが、発表内容は、一部を除き研究の練習レベルのものが多く見られました。指導する者も指導される者も、これからなのでしょう。これが今の作業療法の現状。いかに乗り越え、他職種と同じ土俵で論を交わすことができるようになるかが課題なのだと思います。質より量が求められた時代は終わり、これからは量から質が問われる時代。さあ、作業療法の技と心が問われる時代の幕開けですね。

          
                WFOT大会2014ブース                       Seokyeon Jiさんと韓国との学術交流の話題で盛り上がる
  
2012/06/ 6 知識と知性 

 今年も最終学年の臨床教育がはじまり、学生たちがそれぞれの実習施設に通っています。まだ必要な知識もおぼつかない中で、知識の有無だけではなく、治療・援助にあたる者のありようを見られる(と思っているのだろう)状況をどのように過ごしているのでしょう。今の時期に「見られる自分」を意識しないということは難しいことですが、見せようとする気持ちにとらわれず、できることをすれば、自分に今何が不足しているかに気がつきます。もちろん自分にはもう過ぎたことだから言えることですが。臨床教育では、机上で習ったつもりでいたことの理解の程度を具体的な対象に接することで確かめ、作業療法士になる(ならなくても)上で、自分のこれからの課題が分かる、それが一番大切なことです。
 と、いつもこの時期にこのような思いが頭に浮かぶのですが,同時に浮かぶのが知識と知性のことです。知識はあるに越したことはありませんが、それを使う知性が無くては意味がないものです。うんちく屋で終わるならまだしも、「このトンデモモデル知らないの!」と不確かな知識を振りかざされ、知らない者が恥じて取り込み、取り込んだ者が同じことをさらに知らない者に繰り返す、といったことをこれまで何度も見聞きしました。理論やモデルのネズミ講や新興宗教まがいのような現象です。特に治療や援助の理論やモデルに関する知識は、その背景(いつどこで、何を目的に開発されたものか、適応と限界、メリットとデメリット)を十分知って、自分でもしっかり試行したものでないとこまります。新しい知識を取り入れ検証する知性がないまま知ったかぶり同士で話し始めると、十分知らないということを知られたくないために、さらに知ったかぶりをする。双方が十分に知らないのだから、大変です。それにより知らない者が取り込まれてワイワイガヤガヤ。学生時代はそうしていろいろな知識に出会い身についていくこともいいのでしょうが、臨床に入っても続いている現象があるので?と思ってしまいます。大学がたくさんでき、教員不足がそうした現象に拍車をかけているように思います。輸入業者も必要ですが、輸入したものの中身を確かめず販売する、知識の受け売り横流しだけで生活できる現象が治まらないと、本当の大学教育は始まらないのだろうと、自戒も込めて。
 
2012/06/ 2 世界が違って見えるとき 

 作業療法を生業として30年あまり、何か意味があるのにそれがつかめない、分からない、そうした行き詰まりに何度も出会いました。作業療法の本質は、それぞれの生活の中にあり、作業療法士という仕事がなくなるようになること、自分の生活が作業療法になることがゴールだと思うようになったのはいつの頃からだろう。平凡で豊かなひとの日々のいとなみ、作業療法はそれを療法の手だてとする不思議な仕事です。ひとにとって作業とは、ひとが作業するとは何か、作業するために心身のどのような機能が必要なのか、作業はひとの心身にどのように影響するのか、ひとの発達とは、病いとは、と考えては行き詰まり、いろいろな書を読み、試行と思考の日々でした(今も)。そして混沌とした状態の中で、必ず「あぁそうか、なんだ」という開きに出会うことがあります。そうした開き(気づき)がおきると、それまで見えなかったこと分からなかったことが、霞や霧が晴れたかのようにくっきりと見えるわかるようになる、そんな経験があります。目にしていた世界が違って見えるのです。そこにあることの仕組みが手に取るように見えわかるようになるのです。そしてしばらく進むと、また次のどうしてだろうに出会います。その繰り返し。この終わりのない開き(気づき)が作業療法の魅力だと思っています。 
 2012/06/ 1 「安心して悲しむ」ことに 

 5/26の「安心して悲しむ」ことに、次のようなお考えを頂きました(要約です)。

 作業療法で『安心して悲しむこと、時間を持つこと』は大切で、そうした「悲哀の仕事」には、参加の仕方が保障された場はもちろん、作業療法士の在り方が一番問われると思います。『作業療法士と患者の関係ではなく、人間と人間としての関係で出会うこと』が最も大切なことではないかと思っています。一人の人間として患者さんと出会い、自分の人生の中でその患者さんとの出会いをどう位置付けていくかということなしには、作業療法の知識・技術は活かされないように思います。出会いによる作業療法。作業療法士としてこれまでずっと大事にしてきたことであり、これからも大事にしていきたいテーマです。

そうですね、作業療法で関わるときは、私はひととしてかかわるという基盤の基に、自分が作業療法士として関わっているということをいつも自分に言い聞かせるようにしてきました。なぜなら、ひととして対等な関係にあるということは当然ですが、作業療法で関わるときには、作業療法士としての役割と責務を果たすことが必要だからです。『作業療法士と患者の関係ではなく』とは、いわゆる上下関係ではなくという意味で、同じ思いを抱いておられるのだろうと思いますが、作業療法の場と日常生活での出会いとは、作業療法士としての役割と責務の有無が違うと思います。上手く伝わるといいのですが。
2012/05/29 正論と空論 

いつものことながら、会議などでどうにも反論のしようが無い「正論まがい」が述べられ、論議にならず空転することがあります。今回も大きな会議でそうしたことに出会い、心身ともに疲れることがありました。

正論がおかしいのではありません。一見正論だがどうしてみても実行できない「正論まがい」の空論が振りかざされるときのことです。そうした「正論まがい」で、人の努力を批判し非難する場に出会うと本当に疲れます。「そこまで言うのなら、お前やれ」と思わず口悪く言いたくなるような。
2012/05/26 安心して悲しむこと

安心して悲しむこと、安心して愚痴を言うことができる時間を。

作業療法という仕事をしてきて、病いやそれにともなう障害とともに生きることを余儀なくされた人にとって、いえそうでなくても、悲しんだり、悔しがったり、愚痴を言ったり、そうした生きてきたことに対する括りを安心してできる時間が重要だと思います。それが十分ではないから、いつまでもこころに引っかかり、コンプレックス(劣等感情ではなくこだわりの意味)として残るように思うのです。

 リハビリテーションはリカバリーと受容のプロセス、そのプロセスに安心して悲しむ時間をもつことができればいいのですが。つらい苦しい道のりだろうから楽しい時間をと提供されるレクリエーションの時間を重く感じる人も多い。難しい課題です。
 
2012/05/24 存在の確率

 自分を生んだ母が少し認知機能が低下し、日々の生活が不安定になってきました。88歳になります。その年齢を自覚しながら、あらためてこうして自分が在ることに不思議さを感じます。

自分(だれでも)が誕生し、今ここに生きている。
この事実は偶然の重なりによるもので、その確率は限りなく低い。
また、余命がいくらということも推測はできても、その確率はと問われれば確かなものはない。

 しかし、余命は確実に有り,自分(ひと)もいつか必ず死ぬということは確かです。死亡率は100%です。
これはだれも否定できないことです。これほど確実で疑いようのない真実はありません。
こうしただれもが,もしくは多くの人が認めるということはエビデンスがあるものと言えます。

 なぜこのようなことを思うのか。それはあまりにもエビデンスを問われ、しかもその問われるエビデンスは近代科学の数値化という限定されたもので、だれもが、もしくは多くの人が認めているということをエビデンスとして認識しないという風潮があるからです。
数値化、統計の意味を認めるとともに、その限界とごまかしにも気がつかなければいけないなと思います。
直接エビデンスと繋がりがあることではなかったのですが、歳をとることや余命、必ず訪れる死のことなど、生と死への思いが巡る中でのことでした。
2012/05/22 身体が心を調える

 ひとにとって作業とは何か、作業による療法とはどういうことなのかを、いつものように考えていました。

 ひとは、生きるために日々さまざまな作業(行為)をしています。
食べるとか排泄するとか、生きるために必要な目的をもった作業(行為)を、私であるこの身体により形にします。
この私である身体によって、作業(行為)を形にすることで、私が私であるということ(心)を調えているように思います。
そう、身体により目的のある作業(行為)をすることで心を調えているのです。
それが作業療法の本質の重要な一つの要素であるように思っています。


この「思うこと」に、
「うまい表現が見つからないのですが“私はここで生きている”という確からしさが得られること、そこに生まれる感情や思考が調和していること、私が私と思えること、ここに作業が関わる。そう考えてみて、わりと納得したものの、動物とひととの違いでまた考えてみたところ、犬は作業らしいことをしていないがそれでどこまでの機能が、安定が得られるのだろう。犬とひととの作業特性(行動特性?)の違いは何だろうか。私に見えていないことがたくさんありそうです。感じる、認識するということが、人がこの世界を捉える唯一の方法であるならば、人が“よりよく”生きるカギ?もそこにあるのではないか。そんなことを考えだしたのが、作業療法やってみようかなと思った頃でした。あたらずとも遠からずでしょうか。だといいのですが」
という思いを頂きました。

 それに対して思ったことは、

 感じること、認識すること、それはできる限り現象という事実に基づいたものでないと困る。事実に基づいて感じる、認識することがよりよく生きるカギ。事実に基づかない感じたことや認識は、さまざまな間違いを生みます。
先を思って、今がこれでいいのかと迷う、悩むことは人間の本質だとおもいます。
その迷いや悩みに縛られてしまうのも、迷いや悩みからより納得のいく自分の道を見いだすのも、すべてその人自身。
  ZIZI-YAMA